[憂鬱][憤慨] 小学生時代のハルヒの性格
中学時代のハルヒの奇行に関しては、谷口の「忠告」や七夕の時間遡行である程度知ることが出来る。では小学時代のハルヒは一体どんな少女だったのだろうか。原作からの引用より、小学生の頃のハルヒについて考察する。
おそらくハルヒのこの変化が、([憂鬱]から数えて)三年前の「情報フレア」「時間震動」「神人の発生」の原因となったのだろう。[憂鬱]から3年前と表現できる期間は2003年の1月から12月、つまりはハルヒが小六の1月から中学の12月である。小六で野球観戦、と言うと「3年前」以前もしくは3月頃と考えられるから、やはりハルヒの「変態パワー」の発現は、中学入学の前後だろう。同時に、校庭落書きやキョンシーのお札も、それ以降と考えられる。
野球観戦の以前まで、ハルヒはごく普通の、しかもどちらかと言えば明るくて活発な少女だったのだろう。
現在の高校生ハルヒは性格以外の何もかもがよい高校生であるが、その面影は当時からあったはずだ。何せハルヒにとって、宿題は自分の力でやるものであって友人と協力してやるものでは無かったようだし、3年前の七夕の中学生ハルヒから当時の小学生ハルヒの容姿も想像できるだろう。何せ自分を特別だと思うほどだ、何かしら他人とは違う才能や能力を持っていたのだろう。小学生とは言え、この頃からかなりモテる少女であったかも知れない。
しかし、自分が1億分の1というありふれた存在でしかないと判るや、自分は特別じゃないんだ、普通の一人の人間なんだ、と考えるようになってしまう。少なくとも小学時代の野球観戦の思い出は、ハルヒにとって何かしらのトラウマになっているだろう。朝比奈さんを着せ替え人形にする際にキョンの中で生まれた思考プロセスとは違うだろうが。
さらに中学時代の面白くもないイライラしっぱなしの3年間を経ていくうちに、かつての明るさを失ってしまったのだろう。
そのハルヒを、クラスでも打ち解ける明るくて活発な少女へと徐々に戻していくのが、一度も本名で呼んでもらえないキョンなのだ。OP初っ端のの小さいハルヒと高校生ハルヒのシーンは、七夕の時と高校入学後のキョンとの出会いを示していると、自分は考える。
ちなみに中学時代についてのモノローグが断言だとしたら、それはハルヒの野球観戦で感じたことを聞いたからである。もしくは谷口から中学時代のハルヒの様子を聞いての予想だろうか。「違いなく」はどこまで掛かるんだろう。
で、気になるのが「SOS団の立ち上げ」。
ハルヒの変化が始まったのは、確かにSOS団を立ち上げた日だろう。しかし、ハルヒに影響を与えたのは、5月中旬頃から3月上旬までのSOS団の活動そのものである。では何故「立ち上げ」なのか。
そもそものSOS団発足のきっかけとなったのはキョンの「ないもんはしょうがないだろ」の発言である。
ここから考えると(かなり無理矢理にだが)、このモノローグの中でキョンは、ハルヒに変化へのきっかけを与えたのは自分だ、と無意識に思っているのではないのか。
そしてさらに気になるのが次の文。
今のハルヒで十分だと、SOS団と共にいるハルヒがいいと、自分が諦めていたものを運んでくれる今のハルヒがいいと、だから昔のハルヒを知らなくても別にいいんだ、と。極端だが、そんな事も想像できてしまう。
つまりは、キョンにとって、確かに昔の自然な少女だった頃のハルヒについては気になるものの、それよりも今のハルヒがいい、と言うわけだ。
[憂鬱] P225 L3 - P226 L10
朝倉&長門の住む(住んでいた)マンションからの帰り道にて、ハルヒが自分の変化について語る。小学生の、六年生の時。(…中略…)それまであたしは自分がどこか特別な人間のように思ってた。(…中略…)でも、そうじゃないんだって、その時気付いた。(…中略…)そう気付いたとき、あたしは急にあたしの周りの世界が色あせたみたいに感じた。1億人の中のたった0.05%でしかない球場に居た人間、その中の更に0.002%でしかない自分。ハルヒはその日、あくまでありふれたもののうちの一つでしかないことを、ありふれた普通の存在でしかないことを、知ってしまった。そして、ハルヒの世界は、灰色とも言える、面白みのないものになってしまった。
■[涼宮ハルヒの憂鬱] P225 L3 - P226 L2
そして、世の中にこれだけ人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなく面白い人生を送っている人もいるんだ、そうに違いないと思ったの。それがあたしじゃないのは何故? 小学校を卒業するまで、あたしはずっとそんなことを考えてた。自分が如何に普通であるか、自分の周りがごくありふれたものであるか、その事に対して次第に疑問を抱くようになる。この時のハルヒは未だ、ただ面白くない日常に不満を募らせるだけで、自ら面白さを求めようとはしていなかった。
■[涼宮ハルヒの憂鬱] P226 L4 - P226 L7
考えてたら思いついたわ。面白いことは待っててもやってこないんだってね。中学に入ったら、あたしは自分を変えてやろうと思った。待ってるだけの女じゃないことを世界に訴えようと思ったの。そしてハルヒは、中学への入学を機に、自らを変えようとした。ただ不満を募らせるだけではダメだ、自分から探しに行かなければ、と。
■[涼宮ハルヒの憂鬱] P226 L7 - P226 L9
おそらくハルヒのこの変化が、([憂鬱]から数えて)三年前の「情報フレア」「時間震動」「神人の発生」の原因となったのだろう。[憂鬱]から3年前と表現できる期間は2003年の1月から12月、つまりはハルヒが小六の1月から中学の12月である。小六で野球観戦、と言うと「3年前」以前もしくは3月頃と考えられるから、やはりハルヒの「変態パワー」の発現は、中学入学の前後だろう。同時に、校庭落書きやキョンシーのお札も、それ以降と考えられる。
考察
で、それはさておき、小学生時代のハルヒについて考察してみる。野球観戦の以前まで、ハルヒはごく普通の、しかもどちらかと言えば明るくて活発な少女だったのだろう。
現在の高校生ハルヒは性格以外の何もかもがよい高校生であるが、その面影は当時からあったはずだ。何せハルヒにとって、宿題は自分の力でやるものであって友人と協力してやるものでは無かったようだし、3年前の七夕の中学生ハルヒから当時の小学生ハルヒの容姿も想像できるだろう。何せ自分を特別だと思うほどだ、何かしら他人とは違う才能や能力を持っていたのだろう。小学生とは言え、この頃からかなりモテる少女であったかも知れない。
しかし、自分が1億分の1というありふれた存在でしかないと判るや、自分は特別じゃないんだ、普通の一人の人間なんだ、と考えるようになってしまう。少なくとも小学時代の野球観戦の思い出は、ハルヒにとって何かしらのトラウマになっているだろう。朝比奈さんを着せ替え人形にする際にキョンの中で生まれた思考プロセスとは違うだろうが。
さらに中学時代の面白くもないイライラしっぱなしの3年間を経ていくうちに、かつての明るさを失ってしまったのだろう。
そのハルヒを、クラスでも打ち解ける明るくて活発な少女へと徐々に戻していくのが、一度も本名で呼んでもらえないキョンなのだ。OP初っ端のの小さいハルヒと高校生ハルヒのシーンは、七夕の時と高校入学後のキョンとの出会いを示していると、自分は考える。
[憤慨] P177 L6-13
最後に、キョンの考えるハルヒの変化について。きっとSOS団の立ち上げはあいつにいい方への変化を促したのだろうな。と、同時に、それは元々ハルヒが持っていた素地でもあったのだ。ハルヒがおかしくなったのは中学時代で、それ以前はアクティブレーダーミサイルみたいな行動力とアフターバーナー級の明るさを本質にしていたに違いなく、だったら今のハルヒはよくなったと言うよりは元に戻ったと言うべきだろう。キョン君もやはりそう考えますか。
■[涼宮ハルヒの憤慨] P177 L6-10
ちなみに中学時代についてのモノローグが断言だとしたら、それはハルヒの野球観戦で感じたことを聞いたからである。もしくは谷口から中学時代のハルヒの様子を聞いての予想だろうか。「違いなく」はどこまで掛かるんだろう。
で、気になるのが「SOS団の立ち上げ」。
ハルヒの変化が始まったのは、確かにSOS団を立ち上げた日だろう。しかし、ハルヒに影響を与えたのは、5月中旬頃から3月上旬までのSOS団の活動そのものである。では何故「立ち上げ」なのか。
そもそものSOS団発足のきっかけとなったのはキョンの「ないもんはしょうがないだろ」の発言である。
ここから考えると(かなり無理矢理にだが)、このモノローグの中でキョンは、ハルヒに変化へのきっかけを与えたのは自分だ、と無意識に思っているのではないのか。
そしてさらに気になるのが次の文。
当時のハルヒがどんなだったか尋ねてみたくもあったが、たぶん俺はそんなこともしないんだ。昔の自然だった頃のハルヒがそんなに気にならないのか。
■[涼宮ハルヒの憤慨] P177 L12-13
今のハルヒで十分だと、SOS団と共にいるハルヒがいいと、自分が諦めていたものを運んでくれる今のハルヒがいいと、だから昔のハルヒを知らなくても別にいいんだ、と。極端だが、そんな事も想像できてしまう。
つまりは、キョンにとって、確かに昔の自然な少女だった頃のハルヒについては気になるものの、それよりも今のハルヒがいい、と言うわけだ。
Last update 2006/06/12 ▲トップへ戻る